仕事と旅と時々ゴルフ

日々、感じたことをつづる日記です

最後まで謝れなかった、おばあちゃんへのひと言

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」

 

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私は岐阜県の山奥の田舎で育ちました。
三姉妹の末っ子で、子どものころはおばあちゃん子でした。
おばあちゃんと一緒のベッドに寝ていて、学校から帰ってくると、畑仕事から帰ってきたおばあちゃんが、いつもおやつを出してくれました。母親はパートに出ていたので、日中は家にいないことも多くありました。

 

ー いつ頃だろう。
ー いわゆる嫁姑問題があることを知ったのは。


長女は母方、次女は父方寄り。私は祖母も母親も大好きだったのですが、いつしか母親の方を持つようになり、祖母と距離ができ始めました。

 

18歳の頃、東京の大学に進学。
我が家は家計が苦しかったので、学費は大学の融資制度を使い、日本育英会(現日本学生支援機構)の奨学金とアルバイトでギリギリの生活でした。仕送りはほとんどもらわなかったけれど、大学の入学金と学費の一部を祖母が出してくれました。

そんなある日。
実家で家族で話をしていたときのこと。祖母から何気なく言われた、「卒業したら岐阜に帰ってきなさい」という言葉に、「岐阜には帰らない」と答えたことがあります。すると、「東京にやるためにお金を出したんじゃない!」と祖母のきついひと言。私もつい「岐阜なんかには帰らないから!」と反論してしまいました。そのときの、怒りと悲しみに満ちた祖母の表情を今でも覚えています。

 

以来、なんとなく祖母との関係がぎくしゃくしたまま、時が過ぎ、私は30台を迎えます。90を過ぎた祖母は、もう言葉も発せないほど衰弱し、地元の総合病院で寝たきりの状態に。ちょうど同じ頃、私は初めての入院・手術を経験することになり、事前に祖母のお見舞いに行くことに。普段は寝たきりで反応しない祖母が、目を見開いて私のことをしっかりと見つめ、何か言おうと口を大きく動かしました。私は思わず、変わり果てた祖母の姿に涙がこぼれ、うんうんとうなずくことしかできませんでした。

 

こんなことなら、もっと早いうちに実家に帰り、祖母と話をすればよかった。大学生の頃、わがままを言って、祖母に反抗してしまったことを後悔しました。

 

その年の12月。私は都内の病院へ入院。
手術は無事に終わり、しばらく病室のベッドで寝たきりに。当時付き合っていた彼が「雹が降ってるよ」と写真を送ってくれた時のこと。急に窓を強く打ち付ける雹の音がして、ふと窓の外を見つめました。ベッドから起きがれるかどうかという体力だったものの、あまりの大きな音に、窓越しに見える向かい側の病棟に目をやったことを覚えています。すると、京都に住む姉からLINEのメッセージ。


「おばあちゃん、たった今、亡くなったよ。お母さんから連絡があった。」

 

自分の入院で、最期に立ち会うことはかないませんでしたが、祖母がそのことを伝えにきてくれたんだと思いました。

 

私は結局、祖母に反抗して言ってしまったひと言を、最後まで謝ることができませんでした。退院後に実家に帰り、仏前でなんども泣きながら手を合わせたことを、時々思い出します。

 

当時付き合っていた恋人とも、望まない形で別れることになってしまい、仕事でも逃げ場がなく、八方塞がりだったあの頃。おばあちゃんの仏前に向き合うことでしか、自分を保つことができないほどに弱り果てていました。

 


トイレの神様/植村花菜

 

この歌を聞くと、自分のおばあちゃんのことを思い出し、涙があふれます。
家族の存在は、時に近すぎてわずらわしく感じることもありますが、口ごたえできるうちは幸せ。両親や姉妹が元気なうちに、たくさん会いに行こうと思います。

 

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母、祖母、私の貴重な写真。おばあちゃん、ありがとう。