眠らない官僚
東京都千代田区。永田町駅からほど近い場所にある都市センターホテル。先日、たまたまこの前を通りかかり、14年前のことを思い出した。
皇太子殿下ご臨席の会議
2005年7月11日。
量子エレクトロニクスに関する国際会議がこのホテルで開催された。正しくは、「量子エレクトロニクス国際会議2005及びレーザー・エレクトロオプティクスに関する環太平洋会議2005開会式」で(名前が長いw)、社団法人日本物理学会、社団法人電子情報通信学会および社団法人応用物理学会の共同主催の会議。
私は当時、役人をやっていて、この国際会議を国の立場から共同主催していた。内閣府から総務省に出向し、国と学会が共同で主催する国際会議運営を所掌する日本学術会議という組織にいた。社会人2年目、今思えばそんな仕事をよく任せるなあと思うのだが、天皇陛下や皇太子殿下ご臨席の会議を執り行うこともあった。
共同主催国際会議は、年間上限8件。申請ベースで共同主催での開催を受け付け、少額ながら国費が支出されたほか、内閣総理大臣による祝辞(ほとんどは文章の代読)や皇室がご臨席する機会もあった。一般的には栄誉なことなので、いろいろな学会から申請があり、私はその審査などにも携わっていた。当時の日本学術会議は、総務省から内閣府への移管準備も行なっていたため、通常業務でプラスして、法改正やそれに付随する諸々の業務を行なっていた。何をしていたかの記憶はあまりないが、とにかく忙しかったことだけは覚えている。
会議の運営面でももちろん、主催者側として参画する。通常の国際会議の場合は、支払われた国費が適切に使われているかを確認することが主な任務だったように記憶しているが、皇室が臨席する会議はまあ大変。会議当日に向け、関係各所との鬼調整が始まる。宮内庁はもちろんのこと、警察や自治体など、関係者がとにかく多い。そのため、御所から会場となるホテルまでの動線・ロジまわりについて、打ち合わせは何かと衝突がつきものだった。移動する道を完全に封鎖して、その時間帯は皇室専用道路とする必要があるからだ。
*ロジは元々、軍事用語の兵站(へいたん)が語源。軍隊の移動や支援を計画する後方支援者の動きをさす。役人のほか、大手企業やコンサルなどでも使われる。
もう15年も前のことなので、記憶があいまいだが、こんなやりとりがあった。
- 宮内庁「前後のスケジュールの関係で、最短距離のこのルートを通りたい。」
- 警察「この道は○○の関係で警護に不備が生じかねない。こちらのルートに変更できないか。」
- 自治体「この日、ここでは○○のイベントが開催されているため、この時間帯に道路を完全封鎖することはできない。」
板挟みとはまさにこのことで、新米役人の私にこの状況でベストな意思決定ができるわけもなく、上司に泣きつくのが関の山だった。
ロジ周りのほかには、内閣総理大臣の祝辞やご臨席される皇室のお言葉文案を作成し、学会や宮内庁と調整するのも大切な仕事だった。大臣祝辞はそれほど文章を創作する余地はなく、閣議決定の稟議を忘れずに回し、きちんと承認されたかどうかを確認するという、いわばルーチン業務。他方、皇室の祝辞は、調整に難航した。対象となる国際会議は自然科学、社会科学、人文科学とあらゆる分野におよぶのだが、そんな専門的な会議の中身が素人に理解できるわけがなく、それにふさわしいお言葉をしたためることに苦労する。宮内庁も立場はほぼ同じ(と思う)。しかしながら、挨拶文にはいくらかの訂正リクエストが入り、そのたびに学会側に確認して文案を調整するなどしていた。
ロンドン地下鉄・バス同時爆弾テロが勃発
そんな、新米役人2年目の2005年。7月7日に事件は起きた。現地時間午前8時50分頃、ロンドンで地下鉄・バス同時爆弾テロが起きたのだ。準備していた国際会議は、その4日後だったが、前日だったか当日だったか、皇太子殿下自らのご意向により、(調整に難航する)挨拶文が書き換えられることとなった。一文、冒頭にテロの被害に見舞われた方への哀悼の意を示すものだった。
Distinguished participants, ladies and gentlemen,
Before giving my address, I wish to express my deep condolences on those who lost their lives in the tragic incident in London last Thursday.
宮内庁のホームページに、当時の皇太子殿下のお言葉(英語)が残っている。
見えている視界において、この変更に文句を言うものはなかった。むしろ、直前であっても、哀悼の意を述べたいという配慮に、関係者一同、感動したのだった(ここからは単なる想像だが、どの言葉を使うか、何にどこまで言及するか、宮内庁内の調整は簡単ではなかったのではないかと思う)。
私は皇太子ご臨席の会議中、インカムをつけ、殿下の動きを見守った。喧嘩した警察の人たちとも、ここでは連携して動きをフォローしあった。そして、殿下のお言葉も含め、会議はつつがなく進行した。どこの新聞だったか、哀悼の意を述べられたことを報じる記事もあった。そんな努力の甲斐あってか、皇室下賜品(かしひん)として、貴重な品々をいただいた。「恩賜の煙草」というのがその一つで、翌年の2006年には廃止されてしまうのだが、白い箱の表に「賜」とだけかかれたシンプルな煙草をいただいた。父に譲ったら、たいそう美味しかったらしく、娘からもらったものだと自慢して、周りの仲間に配ったらしい。20本入りの煙草はあっという間になくなった。
今思えば、貴重な品だったなとネットを検索してみると、同じことを考える人というのはいるもので、ヤフオクやメルカリで高額で取引されている。空き箱が5000円!今さら我が家を捜索しても、価値ある空箱は見当たらないに違いない。
消防庁のイベントで思い出すテロのこと
都市センターホテルの前を通りすがった数日後、たまたま英国大使館の前を歩いていたら、消防庁が主催するイベントの入り口でテロに関する展示を見た。2005年7月7日の日付、ロンドンという場所。ぼんやり眺めながら、記憶がつながっていく。職員の方が声をかけてくれ、「元号の代わり目などは、テロが起きやすい。また、日本はテロ先進国とも言われているため、市民の皆さんも何かあれば、すぐ通報してほしい」と。そうなのか。それは何かあれば、一般市民として消防局に協力しなくては。春うららかな陽気の日曜日、市民向けにイベントを通じて注意喚起を行うなど、公務員の皆さんも大変だ。
「眠らない官僚」の報道
そして、先日見かけたのが、こちらの記事。
不夜城と言われる霞が関。相次ぐ不祥事で、何かとニュースになっている官僚たちだが、毎晩、彼らの帰宅を待つタクシーが長い行列を作る。彼らの実態を丁寧にインタビューした記事だった。これはまさに、私もわずかながらに経験した、官僚の実態に近いものだった。
「乗った瞬間に『疲れたー』とか『限界だ』とか叫ぶ人もいるし、行き先を告げた次の瞬間に、いびきをかいて寝ている人もいる。朝帰りもざら。土日でも窓の明かりはついてる。消えないときなんて、ないんじゃないか」
「地方に異動が決まったというお客さん(=官僚)は『こんな地獄みたいなところもうおさらばだ!』と言ってました。よほど過酷なんでしょうね」
健康を案じ、身の危険を感じてか、自分の保険金をあげた人までいたという。
体調を崩した役人時代
かくいう私も、役人時代は何度か体調を崩した。特に2年目の後半、食事が喉を通らなくなり、原因不明の頭痛とめまい、吐き気に悩まされる日々が続いた。自宅近くの東京女子医大にかかり、胃カメラを何度か飲んだ。若い女医さんで、手つきは慣れておらず、今ほど麻酔も普及していなかったため、カメラを取り出すときは必ず嘔吐した。もちろん、胃の中は空っぽなので、透明な胃液だけが出た。苦しくて、涙が出た。
胃腸に異常はない。それでも解消されない吐き気。昼休みは机で伏せって仮眠を取るようになった。残業は毎晩遅くまで続き、効率などは度外視された職場環境。働かない人と働く人が明確に分離され、働く人の仕事が無条件に増えていった。終わらない仕事、出口の見えない毎日。「役人の給料は苦痛の対価である」と考えることでしか、自分たちを支える道がなかった。定時を過ぎると節約のために消される廊下の電気。古く、仄暗い廊下を歩いていると、このままどこかに吸い込まれてしまうのではないかという気がして怖かった。
次第に意識が朦朧とする。終電を待つ千代田線のホーム。こんなにつらい日々なら、いっそのこと、ここに飛び込んでしまった方が楽になれるのではないか?そんな考えが頭をよぎったこともあった。
当時、付き合っていた彼にそのことを告げると、怒りと悲しみに満ちた表情で言われた。
「そんなこというな」
でも、その言葉はどこかはかなかった。彼も同じ公務員。これほどまでに追い詰められる環境であることが、身にしみてわかっていたと思う。今、彼は元気だろうか。
時は年度末。国際会議場を視察にいくという、予算消化のための出張を組まねばならなかった。しかも、沖縄。電車に乗るのも一苦労なのに、飛行機に乗るのは、まるで罰ゲームだった。恐らく、青ざめた顔をしていたのだろう。キャビンアテンダントの人が声をかけてくれ、お水を持ってきてくれた。密室に閉じ込められて逃げ場がない恐怖を味わった。
このブログ記事を書きながら、思い出す。庁舎の最寄駅に着いて、地上に向かう階段から見上げた空を。この階段を登れば、またあの地獄の世界が待っている。今ではそれが大げさな考えだとわかるのだが、当時はただ、つらかった。
記事を読んで思うこと
公務員は公僕とも言われ、国民や市民のために尽くすことが求められる。立場上、そういった期待があることは否定しない。ただ、この記事にあるように、日夜業務に追われ、国会対応に追われ、政治家やマスコミ、国民から厳しい目線を投げかけられながらも、必死に戦っている人たちがいる。彼らも私たちと同じ、国民の一人であること忘れないでほしい。